派遣切り当事者Mさんのお話

続いて、県内で派遣切りに遭い、失業して住宅も失った茨城不安定労働組合のMさんから、ご自身の体験について報告がありました。

1993年ごろ 派遣業界に入った。
ロッテで寮付の仕事(12時間)働き始めた。
1999年、仕事が少しヒマになったら、毎週10人ずつ切られるようになり、自分も対象になった。住むところをどうしようかと思い、母親に保証人になってもらいアパートを借りた。
その後、家賃が払えなくなり、前の派遣会社で土浦、群馬と寮付の仕事を渡り歩いた。
その頃はそれで何とかなると思っていた。
最後は、筑西市ユンボ等の部品を作る会社で働いていて、年越し派遣村もテレビで見て可哀そうだと思っていたら、2009年1月、来月で全員辞めてもらうと言われた。寮は3月15日で大家に返す。会社にいられるのは2月28日まで。
それまでは、派遣会社が次の職場を紹介してくれたが、もうどこにもないと言われた。
そこですぐに離職票を出してもらいハローワーク雇用促進住宅を紹介されたが、入るのにお金が必要だったし、もうほとんど空いていなかった。
働けば寮があるとどっぷりつかってしまっていたと反省した。
ハローワークから「市営住宅に入れる」と言われ市の建築課に連絡を取り、審査の上入居が決まった。
でも、市営住宅に行ってみたら、3DKで真冬に電気も風呂桶も、カーテンもなかった。
それでも、何とか仕事を探そうとしたが、仕事が見つからない。40歳以上は受け付けない、面接を受けても連絡もない。そういう会社が60〜70か所となった。宇都宮市まで自転車で面接を受けに行ったこともある。
だんだん市営住宅の退去期限(6ヶ月)が迫る。そんな時に、同じく派遣切りに遭った昔の同僚がテレビに映っていて、連絡を取った。その人に紹介してもらって菊地さん、加藤さんと守谷駅で会って話をした。生活保護を勧められたがその時はまだ決断できなかった。
新聞で見た総合支援資金を借りようと市の社協に行ったが、まずアパートを探すように言われた。不動産屋を回ったが、失業者は相手にされなかった。
総合支援資金利用の実績のある不動産屋を教えてもらって行ったら保障会社の保障を求められ、申請時に状況を説明したら審査が通らなかった。
その後、東京のNPOもやいに連絡取って相談に行って、(本来は対象地域外だったが)どうにか保証人となってもらった。
それで、月29,000円のアパートに入って生活支援費(10万/月)も借りることができ、就職活動している中である会社のアルバイトが決まった。その後、半年ほどの間にその会社でパートナー社員、正社員と奇跡的に採用されることになった。118社目だった。